残光


 五島プラネタリウムが閉まるからといって、僕を連れ出したのは彼女のほうだった。
 それでも人が多すぎて入れないと分かると、
「ま、いっか。お茶でも飲んで帰ろう」
 と回れ右をした。
 ――駅ビル、1Fの喫茶店。
 日差しが降り注ぐ窓際の席の、肩まで沈む深い椅子に寄りかかり、さっきから人波を眺めている。漆黒のテーブルの上を滑るように、いくつもの影が通り過ぎていく。グラスに浮かぶ氷は、春の光を吸い込んで、次第に小さくなっていった。
「失礼します。アイス・ラテのお客様」
 テーブルの横で告げた店員に、由紀が小さく片手を上げた。
 僕は無言でブレンドのカップを受け取る。
 ありったけのシロップを、自分のグラスに注ぎ終えてから、小さなガラスの砂糖容れを彼女は取り上げて言った。
「砂糖、いくつだっけ」
「要らない」
「ブラック?」
「ああ」
 そんなことも忘れたのか。
 小さく息をついて、由紀の手元を見つめた。ガラス容器の中で、砂糖の細かい粒が、宝石のように輝いて揺れていた。
「あ」
 カタン。
 それは由紀の手を離れ、テーブルの上に白い粒を散らした。僕のジャケットの上にも、舞い上がった砂糖粒の一部が降り注いだ。
「ごめんなさい」
「いいよ」
 慌てて駆けつけた店員から布巾を受け取り、僕がジャケットの砂糖を払っている間、由紀はテーブルをじっと眺めていた。
 ふいに、くすっと笑う。
「どうした?」
 覗き込むと、由紀はいたずらを思いついた子供のような目をして僕を見上げた。
「プラネタリウム、だね」
「え」
「ほら、ここ。星空みたいじゃない」
 彼女が指差したテーブルの上には、派手に砂糖の粒が散らばっている。まるでゴミ屑をばらまいたような汚らしさで、美しい星空を連想するのは難しかった。
「これのどこが星空だよ? ゴミ屑、まいたみたいだ」
 僕の言葉に怒ると思った彼女は、顔を上げて笑った。
「あのときも夏樹、同じこと言ったね」
「同じこと?」
「うん。忘れたの」
 そう言って微笑む彼女の笑顔が、古い写真のように色褪せて見えた。



 ∞



「なんだ、これ。きったねえ!」
 十年前の夏。
 僕らは静岡の御殿場にいた。
 高校の陸上部の合宿だった。連日、激しいトレーニングでしごかれ、歩くのも辛いほど疲れきっていた僕らだけど、夜は眠れなかった。部の仲間と騒ぐのが楽しかったし、何より、降り注ぐような星空がまぶし過ぎたからだ。
 そう、あの星空。
 都会育ちの僕らにとって、御殿場の空は衝撃だった。
 あまりに星が多すぎて、黒いドームの天井に、一面白い粉を散らしたようにしか見えない。だから僕は思わず、汚いという台詞を口にしたのだ。
「まるでゴミ屑、まいたみたいじゃん」
 僕が叫ぶと、背中でくす、と笑い声がした。
「なによ、その言い方」
 広瀬由紀の声だった。
 ピンクのジャージの、白のラインが、原っぱを横切って近付いてくる。
 異変に気付いて周囲を見回した。さっきまで近くにいたはずの仲間たちが、駆け足で原っぱを去って行く。闇の中でいくつもの歯が光って、“グッド・ラック!”のささやきが投げられた。
「あいつら……」
 つぶやくと、ちょうど僕の目の前に立った広瀬は、「ん?」と首を傾げた。
「飯野くんたちに、中央広場に行けって言われたの。清水くんから話があるから、って。……それで。 話って、何?」
 僕は動揺して言葉を失った。
 ちくしょう、あいつら、と何度も心の中で舌打ちしていた。きっとこれが連中なりの、バースデイ・プレゼントなんだろう。だけど、僕自身の、心の準備が整っているはずがない。一年以上も想ってきた子に、今日この場で、告白する準備なんて!
 広瀬由紀は、白い肌に黒髪が映える綺麗な子だった。妙に大人っぽくて、同じ年なのに年上みたいに感じていた。僕が二学期の初めという、ハンパな時期に陸上部に入部した理由は、マネージャーの彼女に惹かれていたからだ。……今では部の仲間のほとんどが、僕の恋を知っている。つまり僕をこんな窮地に追い込んだのは、連中の親切心。分かっていたけど、これは無茶なやり方だった。
 心臓が大きな音を立てていた。
 ポケットの中で握りしめている手の平が痛い。
 いつまでも黙っている僕を見て、彼女はため息をついた。そして夜の空気を心地良さげに吸い込み、夜空を見上げた。
「綺麗だね」
「え。……ああ、うん」
 自分でも、ぎこちない返事だと思った。広瀬はとうとう笑い出した。
「嘘。さっき、“汚い”って言ってたじゃない。“ゴミ屑みたいだ”って」
「あれは、その、つい。あんまり星が多いから、びっくりしたんだ」
「でも“ゴミ屑”は、ひど過ぎるよ」
「そうかな? そういえば小学校のとき、クラスに必ず一人、汚い奴がいてさ。黒い下敷きに……」
「ストップ!」
 けらけら笑いながら、彼女は僕の背中を叩く。
「それ以上言わないで。分かるから。……うん、はっきり言って、私も最初ここに来たとき、そう思ったよ。あの下敷きみたいだ、って」
「だろ? やっぱ、思うよなあ」
「思う、思う。 だけど、“汚い”って思えるほど、たくさんの星があったってことが驚き」
「そうだな。これだけの星が、本当は地球から見えていたんだ」
「それを私たちは知らなかった」
「ああ。知らなかった」
「なんか、感動」
「感動……」
 会話は星空に溶け込んだ。
 僕と彼女は、圧倒的な星屑に押しつぶされそうな気持ちで、同じ空を見上げていた。
 僕は告白のチャンスだということを、忘れた。忘れることにした。今ここで、たった二人で居ることが嬉しく思えたから。少しでも、余分な何かを求めたら、この瞬間が失われてしまう。そんな気がしていた。――
「ねえ」
「ん」
「もうすぐ朝だよ」
 黒い森の上の空が、青に変わっている。
 東の空に大きな星が一つ、最後の光を放って輝いていた。
「朝、だね」
 8.14。
 僕はこの日、十七になった。
「誕生日おめでとう」
 小声の祝福に驚いた。
「知ってたのか」
「うん。夏に生まれたから夏樹、でしょ」
 恥ずかしいような、嬉しいような、複雑な気持ち。どんな顔をすればいいか見当もつかなくて、彼女に背中を向けた。
「なんで、知ってんだよ」
「知ってるよ。好きな人のことだもん」
 振り向いた僕に彼女は真剣な瞳を向けた。
「清水くんが入部してきたときから、好きだったよ。ずっと見てたのに、気付かなかった?」


 ∞

 砂糖を拭き終えたテーブルに肘をついて、由紀は窓の外を見ている。
 白い頬に、いくつもの影が映っては消える。茶に染められた髪が、光に透けて金に見えた。
 僕はそっと椅子を引き、腰を降ろして、そんな彼女を眺めた。変わったな、と思い、いや変わってない、と思う。そして僕はどうだろう、と考えた。あれから十年経ち、お互い大人になったような気持ちで、表面的には変わった振りを装っている。けれどいったい、僕らのどこが大人になったというのか。仕事の技術や、社会の常識を身に付けただけで、きっと中身はまったく成長していないのだ。
「仕事のほうは、どう」
 カップを口に運びながら、僕は訊ねた。
「ん。順調だよ。相変わらず雑用係だけど、検定一級に通ったから給料上がったし、まだ当分はやめないと思う。それで、最近はね……」
 秘書の仕事を、細かく説明する彼女に、軽く相槌を打ち続けた。
 ほとんど内容が理解されないまま、言葉はBGMのように耳を通り抜けていく。
 別に、本当に仕事のことが聞きたくて質問したわけじゃない。ただ、昔の友だちに会うと、「仕事はどう」と聞くのが常になっている。“元気にやっている”、それだけ確認したいから。
「で、嫌な上司とかいないの」
「ぜんぜん。みんないい人だよ」
「そう。良かった。でも変なオヤジが近付いてきたら、いつでも言えよ」
「大丈夫だって。夏樹こそ、仕事は順調なの」
「まあな。とりあえず、まだシェーカー振ってる」
「関内で?」
「そ。あの店で」
「うわ、まだ、あそこに居るんだあ。なつかしいな」
「来ればいいのに」
「夜は時間が取れなくて、なかなか」
「ああ、そっか。そうだよな」
「ゴメン」
「いいよ、別に。……謝らなくていい」
 沈黙が二人の空間に落ちた。
 気詰まりをやり過ごすため、僕は煙草に火をつけた。
 また窓の外に視線を向けてしまった彼女の横顔を、無言で見つめる。
“幸せになる、って約束したじゃないか”
 喉まで昇った言葉を、煙に溶かし、吐き出して。
 僕も彼女と同じように、人波へ視線を向けた。ちょうど制服のまま腕を組んだ高校生カップルが、笑い合いながら通り過ぎて行くところだった。
 あのころ、僕らの付き合いもあんなもの――ママゴトだったのかもしれない。
 とりあえず映画に行き、食事をし。
 一度だけ彼女を抱いたけれど、それはただ、子供同士のたわむれだった。
 卒業と同時に、僕らは終わった。
 バイトに明け暮れる僕と、学生の彼女とでは、会う時間も釣り合いも取れなくなっていったのだ。
 別れようと決めたあと、最後に二人で行ったのが、五島プラネタリウムだった。もう一度、あの“ゴミ屑”のような星空が見たくて行ったのだが、プラネタリウムの空は記憶にあるものとあまりに違い過ぎた。スクリーンに映し出された星は美しいだけで、静岡の空の、星全体が圧し掛かってくるような迫力がない。
 それでも彼女は照明がともる直前、消え残った一つの星を指して、
「覚えていようね、あの星」
と言った。
 それから、僕らは約束して別れた。
 “あの朝、東の空に輝いていた星を、絶対に忘れないこと。いつまでも、友だちでいること。そしてお互い、幸せになること。”
 二つの約束は、今のところ守られている。でも最後の約束は、……僕には分からない。彼女が守っているかどうか。
「由紀。幸せか」
 心の中に留まらせるつもりの質問が、煙と一緒に外へ出た。
 それは独り言みたいに小さな声だったが、彼女は人波から僕へ視線を戻して、にこっと笑った。
「幸せだよ」
 灰皿に煙草を押し付け、さらに問う。
「妻のある男と付き合っていても?」
 瞬間、彼女はテーブルに視線を落とした。それでも口許が笑っている。
「幸せ、だよ」
 嘘ではないと感じた。
 僕は頷き、「よし」と微笑んだ。
「幸せなら、いい」
 偉そうな言い方が気に障ったのかもしれない。由紀はちょっと不満げに僕をにらみ、責めるように言う。
「夏樹こそ、幸せなの」
「僕? 僕は充分、幸せだよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「彼女もいないくせに」
「それと幸せとは別」
「ふうん。なら、いいけど。でもさ、なんで彼女つくらないの? 早く彼女つくってもらわないと、心配だよ。それに、いつまでも独り暮らしなんて、つまんないでしょ」
「うちの母親みたいなこと言うなよな」
 苦笑して、カップの底に残ったコーヒーを飲み干した。彼女のグラスが空になっているのを確認してから、伝票を持って立ち上がる。
「そろそろ帰ろう。五時に、彼氏が来るんだろ」
「ん……」
 レジに向かって歩き出そうとしたとき、シャツの裾が何かに引っ掛かった気がして、振り向いた。
「もう少し、一緒にいて」
 由紀がシャツの裾をつかんでいた。肩を震わせながら。
「馬鹿。帰れよ」
 ぽん、と頭をたたくと、彼女は夢から覚めたようにまばたきした。
「幸せなんだろ?」
 笑いながら目配せしてやる。由紀も笑顔になって、うん、と頷いた。黒い瞳に浮かんだ涙は、すぐ乾いた。

 外に出ると暖かい風が頬を撫でた。
 陽は傾いて、ビルの隙間から弱い光を投げている。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
 JRを使う由紀は、地下鉄の階段を降りる僕を見送りながら言った。うん、と頷いた僕に、彼女は少しためらってから聞いてきた。
「ねえ。今は、幸せだけど。……もし、息切れしたら、夏樹のところに行っていい?」
 一瞬、言葉を失い。
 いいかげん怒るべきかな。そう思いながら、笑った。
「ああ。いいよ」
 後ろ手で“バイバイ”と振って、階段を一気に駆け下りる。
 振り向いて見上げた空に、彼女の白いコートの裾がひるがえった。



-END-
執筆2001年4月 吉野圭 著『rainy days』掲載
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