So long



 長い間、彼女に連絡しない僕を先輩は「冷たい」と呼んだ。
「あれだけ夢中になっていたのに。あれだけ好きだったのに」
 もう終わったんだ、と伝えても、彼は眉を吊り上げて怒るのだった。
「何、言ってんだよ。彼女はお前が好きだ。お前のことが必要なんだよ――これからもずっと。なのにお前は彼女を見捨てるんだな。冷たい奴だ」
 ふ、と笑って僕は、うつむくことしか出来なかった。
 冷たい、か。
 こうして延々と自分を避け続けている僕を、彼女が一番、冷たいと思っているだろう。
 もしかしたら軽蔑しているかもしれない。それどころか、すでに僕の記憶など、頭の隅に追いやってしまったかもしれない。そのうちに、僕は彼女の人生から消えるのだ。まるで始めから、出会わなかったかのように。
「嫌いになったんですよ、彼女のことを」
 言ってみると先輩は一瞬、軽蔑を顔に浮かべた。
「嫌いになった?」
「そう。プライドの高い彼女にはつくづく、疲れ果てた。今では正直、あいつの顔を見るのも嫌なんです。彼女を好きなんて気持ち、もう僕の中には微塵もない」
 先輩は無言で僕の横顔を眺めていた。
 思い立ったようにカバンを机から引っ張り出すと、手早くテキストを詰め込む。
「……そう、か。嫌いなら、仕方ないよな。でも驚いたよ。人間て、こうも短い間に変われるものなんだ。俺には出来ないな……そんなふうに手の平を返したように人を嫌いになるなんて」
 急ぎ足で立ち去りながら、彼は僕の背中に言葉を投げてきた。
「柚木(ゆずき)。俺、ちょっと、お前のことが怖くなったよ」
 


 大教室に僕は一人残された。
 静かだった。遠くの風の音だけが耳に入ってきた。
 斜めに並ぶ窓から、午後の陽が差し込んでいる。
 教壇にチラチラ揺れる葉影が、滲んだ。
 
 



***




 彼女――綾とは時任教授のゼミで知り合った。
 近寄り難いほどの美人とは言えないが、色白で、たまに見せる柔らかい笑顔が魅力的な子だった。
 ゼミの男たちは皆、彼女を意識していた。憧れるタイプの女性としてではなく、もっと身近な、つまり恋人の理想的なタイプとして。
 意識していなかったのは僕だけだったと思う。
 僕は学問に没頭していたし、それにもともと、恋愛には興味が薄かった。
 そのせいかもしれない、彼女が僕を「大切な友達」と決めたのは。
 よく僕は大学近くの茶店、ミネルヴァに呼び出されて、彼女の話に付き合った。どうでもいい雑談で笑っている日があるかと思えば、急に深刻な顔で悩みを打ち明ける日もある。ふだん学校では決して見せないが、穏やかに見える彼女の心には、暗く深い闇があった。その闇に捕まると、彼女の感情は急降下する。僕はその、降ったり上がったりの激しい感情の起伏に、彼女と同じように付き合った。そんな日々に疲れ果てたが、幸せを感じてもいた。
 気付くと、彼女のことを愛していた。
 “好き”を飛び越えて、“かけがえのないもの”として。

 


「友達だよ」
 二人は付き合っているのか、と聞かれたとき、彼女はそう言って笑った。
 僕が首を縦に振ると、ゼミの仲間は一斉に叫んだ。
「うそだろうー!」
「だって柚木くんは、私なんかに興味ないもん。だから友達でいられる」
 明るい口調の綾に、男たちは目を剥いた。
「冗談。中学生じゃあるまいし、これだけ毎日ベタベタして、お友達ってことないだろ」
「それが本当なら柚木、お前おかしいよ」
「もしかして、柚木ってゲイなの?」
 ありうる、ありうる、と全員で顔を見合わせて頷いている。「前から柚木は怪しいと思ってたんだー」と誰かが言うと、すっかりその結論で盛り上がってしまった。
「なんでもいいや。そういうことにしとこう」
 僕の呟きを耳にして、部屋の隅にいた桐野先輩が手を挙げる。
「おい、柚木、なんだったら俺が付き合ってやろうか。俺、お前みたいな痩せた男って好みなんだ」
 桐野先輩は、すでに卒業しているはずの人だったが、留年して僕と同学年になっている。フランクな性格で、人付き合いの悪い僕にも分け隔てなく接してくれた。僕がゼミの仲間と打ち解けているのは、ひとえに彼のおかげだった。
 僕はそんな桐野先輩に、日頃の感謝も込めて、仰々しく頭を下げた。
「ありがとうございます。僕、先輩のことは大好きです……人間として。でも、男性としては好みではないんです。ごめんなさい」
 室内は爆笑に包まれた。
 綾もいつになく楽しそうに笑っていて、僕は、その笑顔を見て少し幸せになった。





 僕は綾を愛していた。
 けれど、付き合いたいという望みを持ったことは、一度もなかった。
 僕にとって綾は愛しい人で――ただそれだけで、かけがえのないこの存在へ、恋愛の気持ちを抱くことはできなかったのだ。
 おそらく、あの瞬間までは。






 11月の最後の日だった。
 樹齢百年の大木の葉が構内に、乾いた絨毯を作り出していた。
 僕はコートのフードを立てて冷たい風から首を守った。持っていた白いマフラーは、隣を歩いている綾に渡した。
「ありがとう」
と言って、巻いたマフラーは綾の体には少し長すぎた。
 きゅっと顎を白い毛糸に埋めて、腰のあたりまで達したマフラーをぎこちなく翻す姿が、なんだか子供のように見えて可愛いらしかった。けれどその日の綾は、鋭い大人の目をしていた。無言で、僕より少し後ろを歩き、じっと前方を見つめている。
 こんなとき綾は何か秘密を隠し持っているから、僕もあえて話し掛けたりしない。
 それを話すも話さないも、綾の選択に委ねる。背中を向けて歩いていれば、そのうち、彼女は自分で決める。綾はそういう娘だ。
 正門を出る手前で、綾の足が止まった。
 僕は振り向いて綾を見つめた。その唇が動き出すのを、辛抱強く待つ。
「あのね……」
 彼女は、視線を道に落としながら、小さい声で告げた。
「私、好きな人が、できたんだ」
 少し言葉を失って。
「そう」
 応えると、彼女は頷いた。頬が上気していた。
「実はもう付き合ってるの。……時任教授と」
「教授……」
 思いがけない名前ではなかった。
 薄々、気付いてはいた。ゼミで彼女が時任教授に視線を送っている場面を何度か目撃したし、教授も、無表情ながらその視線を受け止めていることがあった。
 けれど、二人の間で何かが始まることはないだろう、と僕は勝手に思い込んでいた。
 それは教授に妻がいたからだし、彼女とはるかに年齢が離れているからでもあった。何よりも、「きっと恋愛はできない」と言った、彼女の絶望的な訴えを信じていたからだった。
 僕は、いつだったか告白された彼女の暗い記憶を思い出し、強く瞼を閉じた。彼女の実の父親が、幼い彼女にした、あまりに残酷な行為……
 それほどの深い傷を負わされながら、結局、父親ほどに年齢の離れた男に惹かれてしまった彼女が、悲しく愛しく思える。
「好きなのか」
 無意識に出た僕の声が、虚ろに響いた。
 顔を輝かせて、彼女は頷いた。
「好き。心から」
 めまいを感じながらも、僕は、彼女の幸福を喜んでいる自分に気付いた。
 そして、できればその幸福を‥‥自分が与えたかったことにも、気付いた。
 三田駅で彼女と別れ、僕は田町の京浜東北線ホームに立った。風が耳元を掠めていった。瞬くネオンが、いつもより眩しく見える。それらが胸の奥の傷口にしみて、僕は小さくうめいた。
 はっきりと、自分のなかで何かが変わったことを悟っていた。
 このまま一人きりのアパートに帰るのが恐ろしかった。
 崩れ落ちそうな体を支えながら、僕は、階段を降って反対のホームへ向かった。
 一駅で、先輩のアパートへ辿り着く。
 あわただしく電車を下りると、商店街を通り抜け、古いアパートの扉を叩いた。
 面倒くさそうに開けた桐野先輩は、僕を見た瞬間に顔色を変えた。
「どうした? 真っ青だぞ」





 綾を、好きになってしまった。
 告白したとたん涙が落ちた。
 そのまま、声を上げることさえできず、うつむいて泣き続けた。膝の上に置いた拳が小刻みに震えていた。
「……真っ直ぐな奴だな」
 黙って僕の告白を聴いていた先輩は、ぽつりと言った。
「そんなんだから、俺、お前のことが好きなんだ。たぶん、彼女も、そんなお前に惚れていると思うよ。きっと、かなり前から彼女は、お前が好きと言ってくれるのを待っていたんじゃないか。ただ、お前がなかなか、自分の気持ちを伝えようとしなかったから――」
 僕は首を振った。
「それは違う。僕は彼女にとって、そういう存在にはなりえない」
「どうして」
 もう一度、強く首を振った。
 詰まった喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど確信に満ちていた。
「どうにもならない。……どうにもならないんだ」




 その後ミネルヴァに呼び出されるたび、僕は地獄を味わった。
 彼女が教授との幸福を話せば、もちろん嫉妬を覚えた。だが、それには耐えることができた。僕は彼女が幸福であれば良い、と思っていたから。ただし幸福そうな口ぶりの陰に、わずかでも不幸が垣間見えた瞬間、怒りで気が狂いそうになるのだった。
 次第に、彼女の話から幸福よりも不幸が増えていった。彼女の置かれた立場を考えれば、当然だった。しかし彼女が泣きながら、「自分は許されないことをしている」と口にする台詞は、僕の中に憎しみを生み落とした。
 眠れない日々が続いた。
 僕は彼女の前では静かに話を聞いていた。だが、自分のアパートへ戻ると、憎しみが溶け出して全身に回る。僕は一晩中、暗闇で体を抱えながら、この痛みに悶え続けた。
 やがて、僕の中に、はっきりと殺意が生まれた。
 彼女を踏みにじっている男が、許しがたい。
 彼女を苦しめている男が、許しがたい。
 死をもってしか奴の罪を浄化できないのなら、僕が、この手で、殺してやろう。
 ……毎日、毎晩、そんなことを考え続けた。たまに夢から覚め、自分の中の怪物に気付き愕然とする。人を憎むという感情を、自分が持っていたということ、この事実が衝撃で打ちのめされた。




 限界が来ていた。
 そのままでは僕は、本当に教授を殺してしまったかもしれない。
 いや、たぶん、それより前に僕が壊れてしまったと思う。
 どちらの結果でも苦しむのは綾だった。
 だから僕はゼミに背を向けた。大学にも行かなくなった。留年した僕は、綾の顔を見ることなく、彼女が無事に卒業したことだけ伝え聞いた。







***






 一年、僕は彼女に連絡を取っていない。
 当然だった。あのとき携帯のメモリからも、手帳からも、彼女の連絡先は消してしまったのだから。
 僕より彼女へ連絡する手段はない。そしてこの一年、彼女からも連絡はなかった。
 大手の商社でOLをしていることは、知っている。友達が増え、楽しく生活していることも耳にする。こういう情報は、なぜかふたたび留年してしまった桐野先輩から入ってくる。もう必要ないと言っても、親切な彼は、しつこく情報を提供し続けたのだ。
 でも、それもたぶん今日で終わり。
 “冷酷人間”には、明日から声さえかけてくれないかもしれない。
 僕は愛する人も、友達も、こうして失っていくのだ。どこか人間として欠陥があるのかもしれないな、と思って、自嘲気味に笑った。
 しかしそんなことも全て、もうどうでもいい。とにかく今は卒業できるかどうかの瀬戸際で、大切な時期だった。余計なことなど考えている暇はなかった。僕は早くこの大学から去らなければならない。
 時計を見る。
 卒論の担当教授に呼び出された時間だった。
 僕は大きく息を吸い、椅子から立ち上がった。




「いったい君は卒業論文を、何だと思っているんだね?」
 ばさり、と論文用紙が机の上に放られた。
「どういう意味ですか」
 西洋哲学担当の高橋教授は、軽蔑を顕わにして鼻を鳴らした。
「これは論文ではない。散文だ。詩だ。そもそも結論が非常識過ぎて、納得できんのだ。とても信じることの出来ない結論を、君は読む者に押し付けようとしている」
「非常識……納得できない……それは高橋教授、あなたの個人的なご感想では?」
「そうではない。いいかね、学問というものは、先人の道を踏襲したうえで、新たな道を発見しなければならないのだ。つまりその分野で“常識”とされている範囲から、大きくはずれることは許されんのだよ。直観に導かれて新説を唱えるのもけっこうだけど、それでは論文とは呼べない。どうしても直観を貫きたいなら、文学や、詩の世界でやってくれたまえ」
「哲学は詩ですよ」
 背後から力のある声が飛んだ。
 ――時任教授だった。
 いつからそうしていたのだろう。開いたドアに寄りかかり、腕を組み、笑みをたたえながら僕たちを見ている。縁なし眼鏡の奥では、目尻に刻まれたしわが目立っていたが、瞳は誠実で強い光に満ちていた。
 彼は無遠慮に室内に入ってきて、僕の前を通り過ぎた。
 机の上に散らばる論文を手に取り、振り返って笑う。
「久しぶりだな、柚木くん。この論文は読ませてもらった。直感的な文章だが、核心を突いている。……“プラトンはまず肉体よりも先に愛が存在することを発見していた。したがって、彼の提唱した精神愛とは、肉体の欠如した愛を定義した言葉ではなく、純粋なる魂の愛を意味するものである”……。うん、実にいいね。詩的で、魂の琴線に触れる。言っておくが哲学者になるためには、この詩的な感性が不可欠なんだよ。なぜなら、哲学は、闇の中で真実を拾い出す直観から始まる。その真実を、現世の明るみに引っ張り出して見せるのが哲学であり、哲学者の使命なんだ。ほら、“知恵の鳥は日暮れて飛び立つ”というやつさ」
 苦々しい顔で、担当教授は時任の独壇場を遮った。
「いや、しかしね、時任さん。いくらギリシャ哲学研究の第一人者であるあなたが推しても、これでは卒業させるわけにはいかんよ」
「うん。そうだね。改善の必要はあるな。なにしろ、これは卒業論文の域を越えている。こういう自説を展開するのは、大学院に上がってからでないと」
 彼は用紙をきれいに整え、机の上に置き、僕を見た。
「君は院に上がってほしい。そしてぜひ、私と一緒に研究してほしい。君の感性が、私には必要なんだ」
 僕は応えなかった。
 代わりに喉から、自然と彼の名が出た。
「時任教授――」
 眼鏡の奥の目を見つめて、長い間抱いてきた問いをぶつける。
「あなたは、精神愛をお持ちですか」
 数秒、沈黙したあと。
 彼は僕の目を真っ直ぐに見返した。
「ああ。全力で、幸せにしたい人がいる」
 殺したいほど憎んだ相手が、今は彫刻のように堂々と美しく見えた。
 僕はただ頭を下げた。






 大学の構内は、今年も枯れ葉で埋め尽くされている。
 勢いをつけて歩く僕の足元が、さくさく鳴った。
「柚木!」
 大声を出しながら僕の背中にぶつかってくる人がいた。振り向くと見慣れた笑顔がそこにあった。
「先輩……」
「今、帰りか? 飯でも食ってかないか」
 僕のことを待っていたんだろうか。今の先輩には、大学にほとんど用事がないことを思い出して苦笑する。
 数時間前の気まずい雰囲気は、一瞬で消えた。
「どうだった、高橋の奴」
「ああ、相変わらず、眉間にタテセン入ってましたよ」
 僕が、初老の教授の気難しい顔を再現してやると、先輩は声を立てて笑った。
「うまいな、お前。俺はあの顔見てると殴りたくなってくるんだ。なにせ2年も戦ってるから」
「そういえば……先輩は、どうして留年してるんです?」
「毎年、高橋が俺の卒論を蹴りやがるからだよ」
「テーマは何ですか」
「“キリスト教と武士道の共通点について”。キリスト教はともかく、武士道はうちの学部に関係ないって言うんだ。でも俺はどうしても書きたいって言ってたら、見事に2年も留年しちまった」
 腹を抱えて笑った。先輩らしい。
「武士道かあ。それは高橋教授が怒るだろうな、東洋嫌いだから。このさい、ハイデガーあたりでごまかしておいたらどうです」
「ううん、そうだな、今年は妥協するか……」
 そのとき、僕の携帯が鳴った。
 メールのアドレスを見て足が止まった。綾からだった。
 立ち尽くす僕のところへ、先輩が慌てて戻ってきて、画面を覗きこんだ。
「綾じゃないか! “新横浜で待ってる”って、お前、やったじゃん」
 思い切り叩かれた背中が痛かった。
 歩き出せずにいる僕の腕を、先輩は強く引いた。
「何、やってんだ。行くぞ」
 引きずられるように歩き出した僕は、すぐに、自分の足で走り出した。
 駅までの道が、果てしなく遠く思えた。




 
 新横浜駅の雑踏の中、白いコートに身を包んだ綾が佇んでいた。
 僕の顔を見ると、柔らかく笑った。
 一年のブランクを感じさせない、そのままの綾だった。
 僕も前のように、軽く片手を上げた。「久しぶり」「久しぶりだね」……隔たりのない言葉がいくつか、交わされた。
「桐野先輩も、久しぶり」
 後ろに立っていた彼に綾が声をかける。先輩は頭を掻いた。
「俺、お邪魔かな」
「そんなことない。いてください。今日は二人に、大切な報告があるんです」
 彼女は僕に真っ直ぐ、視線を向けて言った。
「私、結婚するの」
 背後で先輩が息を飲む気配がした。僕は一瞬何を言われたのか分からず、沈黙した。でも、言葉を理解すると同時に、嬉しさが込み上げた。
「本当か。 いつ?」
「年が明けたら、すぐに」
「相手は……」
「ん。トキトウ」
 彼が妻と別居したという噂は、耳にしていた。けれど、まさか本当に別れて彼女を選ぶとは。
 僕は嬉しいのか悔しいのか、よく分からない感情に突き動かされて、大声を出していた。
「おめでとう!!」
「やめて。恥ずかしい」
 目を丸くして僕を見ていた桐野先輩も、夢から覚めたように「おめでとう」と叫んだ。はしゃぐ三人に、通り過ぎる人々は胡散臭そうに視線を投げて行った。
「あのね。あのね」
 赤くなった頬に手を当てながら、彼女は僕らの騒ぎを中断させた。
「これから田舎に帰るの。親戚に、結婚の報告をしに。それでね、お土産、何がいい?」
 笑わずにいられなかった。
 前からそうだ。彼女はどこかに出かけると、いつも土産のことを気にしていた。
 物など僕には、必要ないのに。
「何でもいいよ。……それより新幹線、すぐに乗るのか。ホームまで送るよ」
「そんな、悪いからいい」
「悪くない。送りたいんだ」
 僕と先輩は入場券を買って、綾の後について改札を抜けた。綾は階段を昇る間中、照れながらも嬉しそうに、僕らを見ていた。
 ホームに上がると同時に新幹線が滑り込んできた。
 三人で駆け出す。
 乗車口で綾は立ち止まって、僕に振り返った。
「じゃあ……」
 彼女の言葉が止まった。
 僕は彼女を抱きしめていた。
「綾。好きだ」
 腕の中で彼女が戸惑っているのが分かる。先輩も息を止めて見守っている。
「ずっと好きだった。だから……絶対、幸せになれ」
 うん、と綾は小さく頷いた。
 彼女を手放すと扉が閉まった。ベルが鳴る。分厚いガラスの向こうで、目を赤くして手を振っていた彼女の姿が、一瞬で視界から消えた。
「泣いていいぞ」
 軽く肩をぶつけてきて、先輩が囁いた。
「泣きません」
「我慢するなよ。ほら、俺の胸を貸してやるから、思い切り泣け」
「あはは。遠慮します」
 コートを翻して僕は、先輩に背を向けて歩き出した。
 階段を降りるたびに、止まらない涙が弾けた。



-END-

執筆2002年12月 吉野圭 著 『rainy days』掲載
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※2005年10月、主人公の名を変更しました


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