空蝉 -utusemi-


 いつも背中ばかり見せて済まない、と思う。
 読み止しの文庫を机に伏せ、傍らに置かれた湯のみを手に取る。茶を持って来た結衣(ゆい)を振り返り修一は笑いかけた。
「ありがとう」
 結衣は声を出さず頷いて微笑んだ。白い頬に笑窪が刻まれる。その窪みを見るのが、十年来、修一の幸福だ。
 日がな一日本ばかり読み、ろくに話をすることもない。そんな夫の後ろで妻は洗濯やら、編み物やらをして過ごす。そして頃合を見て夫に茶を出し、僅かに交わす言葉で笑顔をほころばせるのだった。
 修一の鼻をほうじ茶の薫りがくすぐった。また結衣は、古くなった煎茶を捨てずに炒ったのだな。祖母から教えられたという昔ながらの慣わしを守っている。家財道具もなく嫁いで来た結衣の、それだけがここへ持ち込んだ財産だった。
「少し、外へ出ないか」
 修一が誘うと結衣は首を傾けて屈託なく笑った。
「今、私も言おうと思ってた」
 窓外の陽は蜜色に変わっている。日暮れが早いこの時期、気温が下がるのはまた一段と早い。毎日の習慣となった散歩も、これからはもう少し早く出なければならない。本に没頭して時を忘れるのはほどほどにしなければと修一は自戒した。


 丘の頂上へ続く長い坂道を二人、肩を並べて歩く。
 表通りの並木から運ばれた銀杏の葉が、時おり黄色い風となって二人の周囲を舞った。
 結衣は絶え間なく喋っていた。最近、晴れの日が続いて洗濯物の乾きが早い。この間から編んでいるあなたのマフラーはもうすぐ仕上がる。昨日、近所の農家から大根をいただいた。今日の夕餉は何にしようか。大根をふんだんに使わなきゃ。あなたは何が食べたい?
 修一は相槌を打ち、聞かれたことには丁寧に答えていた。そうしながら景色と、妻の表情を代わる代わる愉しんでいた。
 坂を上がるごとに住宅が少なくなり空が広がる。
 やがて西側の景色が開け、遠く丹沢(たんざわ)の山並が見えた。
 紫の影となった稜線から、今日は富士も頭を覗かせ、宝石の冠となる夕陽を待ち受けている。その富士を越える飛行機は燃え落ちる星のように赤い尾を引いていた。
 結衣は夢心地の瞳に夕陽を映して言った。
「見るたび、いつも綺麗ね」
 修一も頷いて不思議に思った。もう十年、同じ景色を眺めているのに飽くことはない。見るたび愛着が増して感動が深まる。今日は満たされても、明日になればまた夕陽を見たいと願い、同じ道を歩いているはずだ。
 幾度、と修一は考える。あと幾度、同じ景色を見れば満足出来るのだろう。
 あとどれくらいこの地に住み、君との時を過ごせば気が済むのだろうか。


 ゆうべ結衣は泣いたのだ。私たちに子が授からないのはきっと罰が当たったのに違いない、と言って。
 二十歳で駆け落ち同然で結婚した二人を、世間は決して許さない。いやたとえ世間が許したとしても、親を捨てた罪が見逃されるはずはないのだと言い、声を上げて泣き続けた。
 罰などではない、ただ機会を逃しただけでこれからも希望はある、そう言って修一は妻の肩を抱いて繰り返したけれども、いつもの言葉がどれほどの慰めになったか。
 時々、夜になると結衣は泣くことがあった。発作的に込み上げる彼女の涙は、ここ数年、間隔が短くなっていた。
 結衣が心の奥深くで夫を責めていることを修一は知っている。愛する人を責めるために彼女自身が傷付いていることも、彼はまた痛いほどに分かっていた。
 叫び出したい気持ちで修一は自分の無力を嘆く。
 仕事は不安定で収入も少ない。結衣に気晴らしのための贅沢の一つもさせてやれない。将来の生活も約束出来ない。このまま結衣は自分などといるべきではないのかもしれない。他の男といればもっとまともな暮らしをすることが出来るだろう。だとしたら自分が、結衣を手放すことが彼女の幸せに繋がるのではないか。
 けれどいつも喉元まで上がるその言葉を、修一は口にすることが出来ないでいるのだった。


「ああ、あんなところにまた、ビルを建てている」
 丘のふもとの街を指差して、結衣が呟いた。
「何が建つんだろう。またマンションかな」
 修一が言うと結衣は小さく溜息をついて、視線を落とした。
「この街も変わっていくね。毎日、毎日、変わらないようでいて、少しずつ景色は変わっていたのね。今はほら、十年前の景色とはだいぶ違う」
 そうだね、と修一は応じて自分たちの十年を考えた。
 変わるのは周りばかり。恐ろしさを覚えるほど二人には変化がなく、愛情もそのままだった。失う物がなかった代わりに、増えた物もなかった。家具さえ越して来た時のまま使っている。
 周りは駆け足の速度で先へ行ってしまう。このまま自分たちだけ今の地に立ち止まり、ただ歳を重ねて行くのだろうか。
 朽ちた未来が見えた時、いけない、と修一は思った。
 いけない。結衣を付き合わせては。自分は今の地で歳を取り朽ちて行くのも構わない。けれどそんな停滞した人生に、結衣を付き合わせてはいけない。結衣は先へ行くべきだ。
 やはり言わなければならないのだろう。喉元に留めていた、彼女を手放す言葉を。
「結衣……」
 彼が妻の名を呼んだ時だった。
 冷たく小さな手が修一の強張った手を握った。その手は修一の気持ちを察したように、離さないでと言っている。
「ねえ、私たちは、このままでもいいね」
 修一が驚いて結衣を見つめると、彼女は頬に窪みを刻んで笑った。
「たとえ罰を受けているのだとしても。私たちはこの先もずっと一緒にいよう。あの時、一緒にいることを心から願って罪を選んだのだから」
 結衣の瞳が赤いのは冷たい風に晒されたせいか。修一も風から顔を逸らし、目をしばたいた。
「私、あなたといて幸せだよ。これからもあなたといられたら、幸せ。いつか私たちは嫌でも、おじいさんとおばあさんになる。ねえその時まで、一緒にいよう……」
 修一は結衣の肩を引き寄せ、抱き締めた。首元に顔をうずめると若い花に似た薫りが仄かに立ち昇った。ずっと馴染んで来た、結衣の生来持つ薫りだった。結衣を手放してこの薫りを記憶から消すことなど、修一に決して出来るはずがなかった。
「ああ。これからも一緒にいよう。ずっと、ずっと。飽きるまで」
 修一の言葉に、結衣は彼の腕の中でくすりと笑った。
「それは、無理かな。だって飽きることなんてないもの」
 “死が二人をわかつ時まで”
 結ばれた時に誓い合った言葉が、二人の胸に蘇った。
 
 
 愛する人とどれほど長い時を伴に過ごせば気が済むのか。
 どのようにすれば、この穏やかで平和な日々を、貪り尽くすことが出来るのだろうか。
 きっとその術はないし、我々がこれでいいと満足することも永久にない。
 ただ生まれて巡り会い、身が朽ちるまでの僅かな時を、慈しみ味わうしかないのだ。
 人生は短く儚い。
 駆け足でも立ち止まっていても時は過ぎて行く。我々はやがて歳を取りこの地を去る。
 だからささやかで特別なことなど何もない、結衣と過ごす日常の全てを、これからも修一は愛していこうと思うのだった。






執筆2007年12月15日 2008年2月2日改稿 吉野圭 著 『rainy days』掲載 
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