空へ  1

 

 朝から彼女は忙しい。
 メレンゲをホイップする時の、カンカンカン、というリズミカルな音がキッチンに響く。次の瞬間にはもう生地の材料を混ぜ始めている。
 オーブンがばたん、と閉じられて、今度は生クリームのホイップが始まった。
 カン、カン、カン、――カン。
 さらっとしていた生クリームは、たちまち柔らかい雪のようにまとまり、小さな角を立てた。彼女は満足そうに「よし」とうなずいて笑った。
 それからスポンジが焼けるまでの間を逃さず、オードブルの調理に取り掛かる。


 背中で十字に交差するエプロンの紐を眺めながら僕は、こうして彼女がキッチンに立つ姿を見るのは久しぶりだと気付いた。
 結婚したばかりの頃、不器用だった彼女が怪我をしないかと、はらはらしながら見張っていたものだけど。いつの間に、こんなに手際良く料理が出来るようになったのだろう。僕が君のことを見ていないうちに、君はたくさんのことを知り、たくさんの技術を身に付けた。そしてたぶん、たくさんのことを一人で考えていただろう。僕は君が身に付けたことの何もかもを知らず、君の考えに耳を傾けることもついに出来なかった。
 ごめん。
 口の中だけで、小さく呟いてみる。
 僕の声に気付いたのだろうか。
 彼女はふいにハムを切っていた包丁を止めて、顔を上げた。
 後ろを振り向いたが、その視線は僕を避けて食器棚へ移る。
「えっと……。そうだ、大皿。どこへ閉まったっけ」
 独りで彼女は呟いて食器棚に歩いて来た。一瞬だけ食器棚の横に立つ僕へ視線を投げたが、顔は無表情のままだった。背伸びをして食器棚の一番上から大皿を取り出した彼女は疲れたのか、ふうと息をついてうつむいた。
 その時、耳にかけていた髪が落ちた。頬に黒いベールがかかる。
 僕は思わず指を伸ばして彼女の髪をすくい上げた。
 そのまま、そっと、指先を頬に伸ばした。
 微かに温もりが伝わって来た。
 震える指先が柔らかな頬に触れた瞬間、はっと彼女は目を見開いて顔を上げた。
「風……」
 そう呟いて背中を向け、開いていた窓に駆け寄る。最後に入り込んだ風は彼女の髪を舞い上げ、窓が閉じられるとキッチンの片隅で渦巻いて消えた。
 そして彼女はまた、忙しく何かを包丁で刻み始める。
 僕は指先の温もりを握り締めて、愛しい背中を見つめた。


「こんにちはあ!」
 ドアを開けると元気な声が玄関いっぱいに響いた。
 白いドレスでめかしこんだ小さな天使が、靴を放り出して部屋に駆け込んで来る。
「いらっしゃい、高梨さん」
「こんにちは。お邪魔します」
 僕の妻と天使の両親は、微笑みを交わして挨拶した。
「ごめんなさいね。優香ったら勝手に上がり込んで。パパが甘やかすから、お行儀が悪くて」
 早くも子供部屋に駆けて行った娘を見て母親は、申し訳なさそうに言った。
「いいの、いいの。子供は元気がいちばん。それに女の子は、甘やかすくらいがちょうどいいわ」
 上がって、と手で示して、妻は二人を家に招き入れた。
 若い夫婦と一緒に、プレゼントの紙袋と巨大な花束がリビングへ入って来る。花束は白を基調とした落ち着いた色合いの物だった。
「お花、これで良かったかしら。白い百合とかを入れてみたけど大丈夫? 何がいいか分からなかったの」
 妻は花束を受け取って頭を下げた。
「ありがとう。花に決まりはないから大丈夫。綺麗なお花、きっと喜ぶわ」
 マンションの狭いリビングの半分は、家族や親戚や友達が持ち寄った花でいっぱいだった。その花に囲まれて、白い布をかぶった台がある。
 台の中央には十字架があった。十字架の一段下に僕の写真が飾られていた。
 友人夫婦が持って来た花は花瓶に活けられ、写真の最も近くに置かれた。白い百合が台の横で瞬いているクリスマスツリーのライトを浴びて、赤や青に色づいた。
 夫婦はライトの輝きに目を細めながら、静かに写真の前に座って手を併せた。
 後ろから妻が言い訳をした。
「私も主人の家のキリスト教式はよく分からないんだけど、本来なら日本の習慣に従って喪に服すべきなのよね。きっとクリスマスパーティなんて、やるべきではないんだと思う。だけど」
と少し言葉を止め、視線を写真に向けて呟いた。
「……あの人、クリスマスに帰ってくる予定だったから」
 友人の夫婦は顔を見合わせて、小さくうなずいた。
「そうよ。きっと彼もクリスマスパーティを開いてもらって、喜んでると思うわ」
「そうそう。俺も、奴に飲ませるつもりでドンペリのロゼ買って来たんだ。天国で酔ってもらおう」
 妻の目の前に寸胴のボトルが掲げられた。
 彼女は瞳に涙を浮かべて、にこりと笑った。
「ありがとう」
 テーブルには妻が作ったケーキと、オードブル、チキン、ピザ等々が並べられている。子供たちが呼ばれて高い椅子に座らされた。大人たちもテーブルを囲む。
 シャンパンのコルクが弾けて高らかな音を立てた。
「きゃあ」
 優香ちゃんは耳をふさいで悲鳴を上げ、次の瞬間、けらけら笑い出した。僕の息子は音でびくっと体を震わせてから、笑っている友達を不思議そうに見ていた。
 さっき優香ちゃんに無理やり叩き起こされるまで、息子はベッドで寝ていたらしい。僕に似てクセのある彼の髪は四方に立っている。小さなタキシードもしわだらけだった。そのタキシードは今年のクリスマス用にと僕がニューヨークから贈ったものだ。今気付いたけれど、七歳にしては発育の遅い彼にはサイズが大き過ぎた。上着の肩が落ちて情けない姿になっている。だがその貧弱な雰囲気もやはり僕に似ていた。
 僕が息子を眺めているうちに大人たちのグラスにはシャンパンが注がれていた。
 僕の分のグラスもあった。僕のグラスは妻が左手に持った。
「メリークリスマス!」
「メリークリスマス!」
 触れ合うグラスが、チンと鳴る。
 妻は横に立つ僕の顔の前へグラスを掲げた。
 淡いピンクの液体が、輝く泡をたたえて揺れた。
 

「過労死か……」
 酔いの回った高梨が、とろんと溶けた瞳を僕の写真に向けながら呟いた。
 ケーキもチキンもピザも、一通り片付いていた。最高級のシャンパンはとっくに空となり(ほとんど高梨が飲んだのだが)、冷蔵庫から出されたビールもかなり消化されている。大人の会話に飽きた子供たちはリビングの横の和室に退散して、絵本やオモチャを散らかして遊んでいた。
 クリスマスの楽しい気持ちを出し尽くし、アルコールも充分入って、大人たちは静かに本音を語るのに相応しい雰囲気となった。そんな時、高梨が呟いたのだ。一同は自然と僕の写真へ視線を向けて黙り込んだ。
 妻も写真を見つめて悲しげに息をついた。
 慌てて高梨が妻に向かい、僕を持ち上げるような台詞を並べた。
「藤野は仕事も出来たし、それだけ周囲の期待が大きかったんだ。責任感が強かったから断ることが出来なかったんだと思う。あいつは立派な人間だったんだよ。ただ、ほんの少し、立派過ぎただけだ」
 妻は優しい笑みを返して、
「そうね」
と応えた。
 その笑顔を見た瞬間、高橋の中で堰が切れたのか、彼は目に涙を浮かべて喋り始めた。
「何度も言ったんだよ俺は。このまま会社に身を捧げても虚しいだけだぞって。奥さん子供を大事にしろ、ってさ。でもあいつ、この仕事を片付けるまで日本に帰れないって言って……片付くはずのない仕事なのに」
「あなた。やめましょう」
 彼の妻が袖を引っ張った。しかしアルコールで緩められた彼の理性は、涙を止めることが出来なかったようだ。
「奥さん本当に申し訳ない。俺、悔しくて……」
 そう言ったきり高梨はテーブルに突っ伏し、おいおい声を上げて泣き始めてしまった。
 

 僕が死んだのは今年の九月だった。
 ニューヨークの夏も暑さは厳しい。特に今年の暑さは酷く、九月に入っても摂氏三十度を越える日が多かった。とは言え日本ほど湿気はないから不快感はないのだが、日差しは鋭く肌に刺すように感じられる。その日差しに当てられたらしく、はじめ僕は夏バテのような症状を覚えた。数日後、夏風邪をひいた。微熱がなかなか下がらず、体はだるかったが、それでも僕しか出来ない仕事があったから気にも留めず出勤し続けた。
 会社で倒れた時には遅かった。肺炎だと言われ入院してから一週間後、病院のベッドの上で僕の命は尽きた。
 正直なところ医師にも、正確な死因は分からないようだった。三十三歳という若さで、しかもあまりに突然の死だったため最初は恐ろしい伝染病を疑われたくらいだ。けれど僕の体からは、危険なウィルスなどは一切検出されなかった。もちろん急性白血病等でもない。どうやら僕はただ、風邪をひき肺炎にかかって命を失ったようだった。
 だが家族や友人がその結論で納得出来るはずがなかった。
 彼らは「過労死」を疑った。
 特に同僚の高梨は、ひたすら強く僕の死因を「過労」であると信じ続けた。
 僕が大手旅行代理店のニューヨーク支店長となって三年。人から見れば栄転のように思えるこの転勤も、実は左遷に等しいものだった。業績が悪化し、閉鎖の決まったニューヨーク支店の責任を被る“いけにえ”として、たまたま僕が選ばれただけのことだ。理由は特別ないだろう。強いて言うなら、あまり従順ではない僕の態度と、家柄や学歴が上司のお気に召さなかったというところだろうか。
 高梨は必死で止めてくれた。
「そんな仕事に意味はない。お前なら他の会社に移ることも出来るのだから断れ」、と。奥さんと子供を大事にしろ、ということも、うるさいほど言ってくれた。
 だが僕は忠告を聞かずにニューヨークへ旅立った。
 永久に帰ることのない旅に。
 今の僕には分かる。三十三年という時間が僕の寿命だったのだ。年間労働四千時間に達する働き方をしていたのだから、確かに過労死の基準に当てはまると思う。だけど、それだけ働くことになったいきさつも含めて、全てが僕の運命だった。取り憑かれたように閉鎖の決まった支社を立て直そうと努力を続けたのは、最初から三十三年でここを去ると決まっていたからだ。


 だけど生きていた頃は残り時間に気付けなかった。
 だから僕は忘れていた。
 本当にしなければならないことを。



 目次  次へ



掲載2004年11月26日   著者k.yoshino(吉野圭)



inserted by FC2 system