空へ  2


 大人たちの酔いが覚め、パーティも終わりの雰囲気に近付いた頃。
 うわああああん、と激しい泣き声がリビングに響いた。
「あらら。喧嘩かしら」
 三人は弾かれたように立ち上がって、子供たちがいる和室を覗いた。泣いていたのは優香ちゃんだった。
「優香」
「優香ちゃん、どうしたの?」
 彼女は真っ赤な目から涙をぽろぽろこぼしながら、僕の息子を指差して叫んだ。
「空くんが。空くんが、サンタなんかいないって言うの!」
 息子は腕を組んでフン、と鼻を鳴らした。
「本当のこと教えてやっただけだろ。サンタクロースなんかいない。あれはお父さんかお母さんが、サンタの振りしてプレゼント置いているだけなんだ、って」
 優香ちゃんの両親が絶望的な顔を見合わせた。
 息子は少しも悪びれず、僕によく似た生意気さを発揮して堂々と解説する。
「ボクはおじいちゃんから教えてもらったから、知ってるんだ。サンタクロースなんて作り話だ。本物は聖(セント)-ニコラウスっていう人間のことだ。ニコラウスは大昔に死んだ人だから、幽霊じゃなければこの世界にいるわけないよ」
 優香ちゃんは泣くのをやめて真剣に聞いていた。6歳の彼女にも、どうやら息子の言うことが本当らしいと感じ取れたようだ。
 妻が額に手を当てて、「ああ、空ったら何てことを!」と呟いた。かがんで息子の小さな肩をつかみ、厳しい目をして叱る。
「ダメよ。そんな悲しいこと言ったら。サンタさんは本当にいるの。信じて」
「嘘つき!!」
 空は叫んで体をねじり、母親の手を振りほどいた。彼の目も赤くなっていた。
「なんで、大人は嘘ばっかつくんだよ! ニコラウスがうちに来たことない。パパも帰って来なかっただろ。みんな嘘つきだ。嘘つきは大ッ嫌いだ!」
「ソラ……」
 恵美子は行き場を失った手を止めた。
 見開かれた瞳に溢れたものは、すぐに大粒の涙に変わって落ちた。
「ごめん」
 震える声で彼女が呟いた。
「ごめんね」
 妻は息子を抱き締めて泣き始めた。
 母親の腕の中で空も、しゃくり上げながら泣いた。


 リビングで僕は一人その光景を見ていた。
 無力感が全身を包んだ。涙が頬を伝ったけれど、それさえ幻。手の甲で涙を拭ってみるが、すぐに淡く輝く小さな光へと変わった。
 二度と妻と子に触れることが出来ない手は、空中でぼんやり透き通っている。……


「じゃあ、そろそろ帰るわね」
 高梨夫婦と優香ちゃんが上着を羽織って立ち上がった。妻は彼らを玄関まで送りながら、言った。
「今日はありがとう。それから空が優香ちゃんにひどいこと言って、ごめんなさい」
「大丈夫。家に帰って、もう一度サンタさんのこと教えるから」
 高梨が片目を閉じて小声でささやいた。さらに小さな声になると、ちょこんと頭を下げた。
「さっきは、取り乱してすいませんでした。泣きたいのは奥さんの方なのに」
「いいえ……。あんなに想っていただけて、藤野は幸せです」
「お邪魔じゃなければ、また藤野に挨拶に来ます。奥さんも気を落とさないでくださいね。きっと藤野はあなたのこと、まだ見守ってますよ」
「え」
「藤野はあなたの傍にいる。俺には、そんな気がするんです」
 恵美子は少し戸惑った後、幸せそうに笑った。
「そうね。そう思いたい。ありがとう」
 ドアが閉じられた。
 辛い静寂が戻って来た。
 名残惜しげにドアを見つめていた妻は、ふっと振り返った。
 彼女の視線は、廊下に立っている僕を素通りしてリビングに向けられている。
「まさかね」
 肩をすくめ、そのまま彼女は真っ直ぐ廊下を歩いて来た。
 僕の体を通り抜けてリビングへ向かう。


 彼女が通り過ぎる瞬間、僕は彼女へ手を伸ばした。けれど手はいつものように虚しく空気に溶けた。
 握り締めた手の先を見つめた。視線の向こうに鏡があった。洗面所のドアが開いていて、鏡に僕の姿が映っている。ぼんやりと光輝く、淡い映像として。
 僕は死後も自分の姿が鏡やガラスに映ることを知っていた。クリスマスまでこの世界に留まりたいと強く願って来たから、鏡だけは存在を映してくれるのかもしれない。だから僕は今日まで、生きている人たちを驚かせないように鏡やガラスの前に立つことを避けて来た。
 でも鏡に映る僕の姿は、日に日に薄くなって来ている。
 もうすぐ僕はこの世界の物ではなくなる。それが分かる。
 おそらく今夜が最後だろうと思う。
 

 迷う時間はなかった。
 僕には、するべきことがある。



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掲載2004年12月2日   著者k.yoshino(吉野圭)










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