空へ  3


 黒髪が飛沫を上げた。
 光沢のあるストレートの髪は高校時代から変わらない。OL時代に茶色へ変わったが、いつの間にか元の色に戻っている。その吸い込まれるような黒は僕が惹かれたものの一つだ。
 バスルームから上がったばかりの白い肌は湯気を立てていたが、すぐに清潔な寝間着で包まれた。その後、妻はいつものように洗面台の前に立って手早くドライヤーをかけ、歯磨きを済ませる。
 最後に彼女は、風呂場の湯気で曇った鏡をタオルで拭くはずだった。
 僕はその瞬間を待って、彼女の後ろに立った。


 曇りが拭い去られた。
 間もなく僕の姿が、淡い光として浮かび上がる。
 鏡の中で、僕と彼女の目が合った。
 彼女は一瞬ぼうっと鏡を見つめ、それから息を止めて目を見開いた。喉元まで出た叫び声を飲み込んだことが分かった。
「僕が見える?」
 妻は、小刻みにうなずいた。
「声も聞こえるんだ?」
 恐る恐る、彼女は鏡に触れてささやいた。
「ここから響いてくる。鏡が震えている」
「そう」
 ほっとして笑った。ため息のように言葉が吐き出された。
「……僕はずっと、君を見ていた」
 いきなり彼女の瞳から涙が落ちた。
 声もなく光の粒が落ち続ける。
 たまらず、僕は彼女に深く深く頭を下げた。
「済まなかった。寂しい想いをさせてしまった。三年も留守をしたあげく、この世界から去ってしまうなんて。君たちを置いて行きたくはなかったんだ。でも、仕方なかった。僕に与えられた命はあの時までだったから」
 どれくらい頭を下げていただろう。顔を上げて見た時、妻はまだ泣いていた。嗚咽を抑えるために口元を両手でふさぎ、首を振りながら。
 彼女の喉から、声が絞り出された。
「いいの。それより……会いたかった」
 僕は彼女に駆け寄った。
 ずっとそうしたかったように、精一杯の力で抱き締めた。
 僕たちの体はぶつかることなく混ざり合った。彼女の温もりだけが伝わってきた。
「僕は君の体温を感じるよ、怖いくらいに。僕の体は冷たい?」
 訊ねると彼女は僕の胸の辺りで小さく首を振った。
「少し涼しい、風が吹いているみたい」
 僕の目から幻の涙が落ちた。
「ずっと、こうしていられたらいいのに」
「うん」
「君の傍にいたい。いつまでもずっと。抱き締めていたい……」
 僕たちは永遠にも思える時間、泣きながら抱き合った。

 
 午前0時を指す時計の針が、チッと微かに鳴った。
 僕は顔を上げ、そっと彼女に告げた。
「やらなければいけないことがあるんだ」
 彼女も顔を上げて、鏡の中の僕を見つめた。
「空のことだ」
 彼女はうなずいた。少し悲しげに目を伏せて言う。
「あの子、名前の通り、空ばかり見る子になってしまった」
「そうだね。空という名前を付けた僕が、悪かったのかもしれない。身近なことに囚われずに、青空のような遠い未来を見つめて生きる人になってもらいたかったんだ。つまり夢を見る人になって欲しかったんだけど……彼は現実の空ばかり見ているね」
「あなたを探しているのよ。あなたが空に昇ったと教えたから」
「そうか」
 僕の心にざくりと痛みが刺さった。
 愛する息子が、そうして空ばかり見上げているうちは、僕は空に昇ることは出来ないだろう。罪を抱えて行き着く先は無限の闇だ。
「空には、本当に教えなければいけないことがあった。なのに、それを教えずに僕は死んでしまった」
 彼女はうなずき、うつむいた。
「空は、もう寝たかな」
「まだ。あの子、クリスマスの夜は寝ずに過ごすの」
「そうだった」
 僕は知っている。
 空が本当はサンタクロースの存在を信じていると。
 信じているからこそ、姿を確かめたくて、毎年クリスマスの夜は寝ずに過ごすのだ。
 でもサンタに会いたいという彼の期待は毎年、裏切られてきた。今年こそ彼をサンタクロースに会わせるため僕は、ニューヨークでサンタの服を買って今日という日を待っていたものだった。
「空をサンタに会わせたいんだ」
 彼女は涙を拭いた。鏡の中の僕が持っている物を見て、笑う。
「それで、そんな服を持って現れたのね」
「ああ。協力してくれる?」
 微笑んで、妻はうなずいてくれた。



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掲載2004年12月5日   著者k.yoshino(吉野圭)


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