空へ 4
空は眠った振りをしてベッドに潜り込んでいた。 ドアが細く開くと、そっと布団を下げて薄目を開ける。 いつものように母親がプレゼントを持って入って来たと思っているのだろう。分かっているぞと言いたげに鼻を鳴らして、それでもじっとドアの隙間を見ていた。 その時。 ドアの隙間で、赤と白が揺らめいた。 息を飲んで空が見つめていると、淡い色はぼんやりと人の形になった。 がばっと彼は布団を跳ね飛ばした。転がり落ちるようにベッドから降りて、ドアに駆け寄る。 「聖ニコラウス!?」
大きく開かれたドアの前には、等身大の鏡が置かれていただけだった。 彼はきょろきょろと辺りを見回して、叫んだ。 「ニコラウス! あなたですか? 僕のところへ、いらっしゃったのですか?」 ふと彼は廊下の先のリビングが、微かに輝いていることに気付いた。 忍び足で、そちらへ向かう。サンタが逃げないように話しかけながら。 「聖ニコラウス……いらっしゃるのなら、僕の話を聞いてください……ニコラウス!」
僕はリビングで息子の気配が近付いてくるのを待ち受けていた。タイミングをはかり、自分が着ていた赤い上着を脱いで思い切り投げた。
それはサンタの衣装だった。息子のためにサンタを演じようと用意したものだ。棺の中に入れてもらった衣装を、今日まで大切に携えてきたのだった。
けれど持ち物は僕自身の思念に過ぎないから、僕の体を離れた瞬間に淡い光となって消える。
空気中に一瞬だけ舞ったサンタの衣装は、霧のように赤い色だけを残して天井に昇り、やがて色も空気に溶けた。 「あっ」
この光景は、カーテンを開け放した窓ガラスにはっきり映っていた。 息子の目にはきっと、サンタの体が夜空に昇ったように見えただろう。 空は必死の形相で駆けて来て、窓の前にぺたんと座り込み、真っ黒な夜空の遠い先を見上げた。 「ニコラウス……! あなたはもう、行ってしまわれたのですか?」 息子の目から、涙が落ち始めた。
「……お願いです。教えてください。天国で、僕のパパに会いませんでしたか? パパは、ボクのこと、なんて言ってた?」 空の涙はクリスマスツリーのライトに照らされて、赤や青の光になって床に落ちていった。
「ねぇ。パパは、なんで、うちに帰って来なかったの? ママのことが嫌いになったの? それともやっぱり、ボクのことが嫌いになったからなの? きっと、いい子にしてなかった僕が悪かったんだよねえ……」
暗いリビングに泣きじゃくる息子の声が響いている。
こらえきれなくなって僕は後ろから、そっと彼に近付いた。 「ソラ」 どこから声がしたのか分からない彼は、濡れた顔を上げて後ろを見回した。
「空。ここにいるよ。窓のガラスを見てごらん」 空はガラスを見て、ぽかんと口を開けた。 「ただいま」
僕は笑って見せた。
だが息子は硬直してガラスを見つめているだけだった。
「誰?」
しばらくして、おずおずと息子が口にした言葉に僕は少し落胆した。
そうか。考えてみれば当たり前だ。三年も会わなかったのだ。僕自身、息子が成長していて驚いたくらいだから、今の息子にとって僕は見知らぬオジサンに過ぎない。
「君の、パパだよ」
教えると彼はまた口を開けた。急いで写真と、ガラスの中の僕とを見比べる。
そして息子の瞳が輝いた。
「パパ! 帰って来たの?」 「うん。少しの時間だけね」 「でも、なんで?」
「天国で聖ニコラウスに会ったんだよ。この一年間、空がいい子にしていたから、クリスマスの日だけ地上に戻してやるって言われた。それで今日ニコラウスは、パパを天国から連れ出して、この部屋まで送ってくれたんだ」 「ニコラウスが!」
口に手を当てて彼は、瞳を輝かせた。
「やっぱり……ニコラウスは聖霊になって、地上で仕事してるんだ」
「そうだよ。赤と白の服を着て世界中を駆け回っているのが、彼の霊だ。だけど彼は時間がないから、空と会わずに行ってしまった。なにしろ、世界中の子供たちにプレゼントを配らなければいけないからね。ごめんな」
「うん。…いいよ。パパと会えたから」
空は笑ってくれた。
この半年で初めて見た笑顔だった。
「ねえ、パパ。まだ時間ある?」
彼は見えない僕のシャツの袖を引っ張った。僕は笑顔でうなずいた。
「大丈夫。朝までいるよ」
「じゃあ、ママ呼んでくる。三人で一緒にクリスマスパーティしようよ。パパと一緒にクリスマス、したかったんだ」
空は勢い良く廊下を駆けて行った。
僕はその背中を眺めながら思う。
そう。ニューヨークにいた三年間、家族で食卓を囲む日を僕はずっと夢見ていた。
ついに叶わず僕の人生は終わってしまった。
本当のタイムリミットは過ぎてしまったけれど、少しの反則ならきっと、神様も目をつぶってくれると思う。
僕たち三人は朝までクリスマスパーティをした。
テーブルの周りには、家中のありったけの鏡が置かれた。
僕は何にも触れられず何も食べられないから、椅子に座って話をした。たくさんの話を。
たとえばパパが高校時代に、部のマネージャーだったママを好きになったこと。
告白して付き合って、就職と同時に結婚を申し込んだこと。
パパは今でもママに惚れていて、彼女の瞳に見つめられるのが弱点だということ。
それから、空が生まれた時の話――初めて空を抱いた日のこと。
「空はすごく小さくて壊れてしまいそうだった。抱くのが怖かったよ。でも抱いたら柔らかくて、びっくりした。愛しさが込み上げてパパは泣いてしまったんだ。ずっと、離したくないと思った」
空は顔を真っ赤にして聞いていた。
「ボクにも赤ちゃんだった頃があるんだね…」
「そりゃあそうだよ」
僕と妻は大声で笑った。
笑うことがこんなに幸せだったなんて。生きている時にどうして気付かなかったのだろう。
僕はさらに幸せを思い出して言った。
「そうそう、空の歯が生えてきた時は感動したな。ママが空を抱かせてくれて、“小さな歯を見つけてみて”と言ったんだ。君は大口を開けてあくびをしたから、歯はすぐに見つかった。下の前歯だ。かろうじて指先で触れられる、ちょこんとした可愛い歯だった」
「やめてよ。恥ずかしいよ」
「恥ずかしいことないだろ。ほんとに可愛いかったんだから」
僕は空の顔に近付いて、じっと眺めた。
横の鏡で空もそのことに気付いて、また赤くなった。
「空。イー、してごらん」
「ええっ」
「イー だよ」
僕は鏡に向かって手本を示した。歯が全部見えるような形で、笑って見せる。
空は思い切り首を横に振った。
「嫌だ! 恥ずかしい」
「なんで」
妻が笑いながら、空のあごを持ち上げた。
「いいじゃないの。パパに見せてあげなさい」
しぶしぶ、彼は口を“イー”の形にした。前歯が一本抜けている。
僕は、「あっ」と声を上げた。
空の歯は大人のものに変わり始めていたのか。僕の知らないうちに、この子はなんて大きくなってしまったんだろう。
そして……、
これからは僕の知らない空の未来が、数え切れないほど続いていくのだ。
「パパ?」
空が目を丸くして鏡を見ている。
「どうして泣いてるの?」
僕は頬の光を拭い、笑った。
「歯がない空の顔が可愛くて、さ」
訳がわからないという顔で、空は宝石のように輝く大きな瞳をまばたきさせた。
東の果てが白み始めた。
「空?」
僕がそっと声をかけた時には、彼はもうテーブルに顔を伏せて夢の中だった。
僕と妻は鏡の中で目を合わせた。
「空、寝ちゃったな」
「そうね」
「また肝心のことを言いそびれてしまったよ」
僕は空に近寄って抱き締め、額にキスをした。空の温もりが感じられた。
温もりが愛しかった。
急激に激しい衝動が襲って来た。……ここに留まりたい! 空の温もりをいつまでも感じていたい! ずっと……空と恵美子の未来を見て行きたい! 神様!
けれど僕は知っている。
神でさえ人の運命を変えることは出来ないと。
僕は、行かなくてはいけない。
自分の体を引き剥がすように空から離れた。心が悲鳴を上げた。必死で痛みをこらえて、鏡の中から恵美子を見た。彼女の瞳も、すでに赤くなっていた。
少しずつ部屋に入り込む朝陽に溶けて、僕の体は輪郭が曖昧になってきていた。
「そろそろ行くね」
「ええ」
「空を、頼むな」
「うん」
彼女の瞳から大きな涙の粒が落ちた。
拭ってやりたい衝動にかられて僕は妻に寄り添った。涙は僕の手の中で光り、止まらずに流れ落ちた。
僕は告げた。
「さよなら。それから――」
言葉に迷って僕は声を失った。
妻の瞳を見た。彼女は鏡を通さず、僕の目を見つめ返してくれた。
もう時間がない。
僕は全ての気持ちを一つだけの言葉に託した。
「ありがとう」
瞬間、ビルの隙間から朝陽が射した。
光の矢に射抜かれて僕の姿は空へ溶けた。
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